科学と哲学のブログ

哲学、科学について書いていきます

意識と脳科学 – Jaegwon Kim, philosophy of mind

Jaegwon Kim, "philosophy of mind" の意識と心身問題について書かれた章(チャプター10)の読書ノート、その5です。


意識と科学との関わりについて、次の3つの関連しているが異なる問いを立てることができる。

  1. 意識は科学によって説明されるか?
  2. 意識は科学において説明力を持っているか?
  3. 意識は科学によって研究されるのか?

意識は科学によって説明されるか

まず1について。もし意識の機能的定義を与えることができれば、還元的説明を与えることが可能であることは既にみた。したがって、1への回答は、もし機能的定義を与えることができ、かつ、もしその神経上の実装を特定することができれば、YESである。二つの「もし」のうち、前者は哲学上の問題、後者は科学上の問題である。学習、記憶、自己意識といったような意識の側面に対しては、機能的定義はうまくいくと考えられている一方で、痛みのようなクオリアに対して、体の損傷を原因として忌避行動を結果に持つような状態として定義するような、よく引き合いに出されるような素朴な機能的定義を与えることはうまくいかないと考えられている。クオリアに対するより見込みのある機能的なアプローチとしては、クオリア表象主義がある。この説はクオリアは表象であると主張するのだが、表象は一種の機能的概念であるとみなせるので、機能的なアプローチの一種であると言える。

クオリア表象主義者のChristopher Hillによれば、痛みの経験は身体の不調を表象していて、痛みとは痛みの経験によって表象されているものである。したがって痛みとは身体の不調である。「身体が不調である」という命題は、痛みの経験の志向的対象(すなわち内容)になっているのである。この説は、痛みを感じているが実際には身体に不調はないというような事態も「誤った表象」(misrepresentation)として許容することができる。

このクオリアや意識の表象主義は、物理主義的に扱い易いが、しかしこの説で本当に痛みのクオリアの「痛みの感じ」を説明できているのか、疑問は残る。

意識は科学において説明力を持っているか?

次に2について。(この問いは例えば、ある人が恐怖を感じ心拍数が上がったいう出来事を考える。心拍数の増加という物的現象は、恐怖を感じたという心的現象が原因であるといった説明を与えることができるか?という問いである。)

Ned Blockが提案した分類によれば、意識にはアクセス意識と現象的意識という二つの側面があるとされる。アクセス意識とは、他の認知活動や行動に利用できるような情報処理能力のことである。(例えば、運転手は信号機に色を認識することで交通ルールを守って運転することができる。信号機の色の認識は、アクセス意識である。)一方で現象的意識とは、質的な感覚のことである。(上の例を続けると、運転手にとっての信号機の色の感覚そのものである。)アクセス意識は認知・心理学上の機能的な概念であるから、当然科学上の説明力を持っていると言える。しかし現象的意識はどうだろうか? クオリアは脳・行動科学において、説明的な役割を持つだろうか? また関連する問いとして、因果的な効力を持つだろうか? クオリアが神経状態に還元的な同一性を持たない限り、ありそうもない。(Kimは明言はしていないが、機能的定義による還元ではダメで、同一性による還元でない限り、クオリアは科学的に説明力を持たないと考えているように読み取れる。それには同意できる。何故なら、痛みのクオリアがC-fiberの励起であることが仮に機能的分析によって結果的に示されたとしても、人間の行動を科学的に説明する際に必要なのはC-fiberの励起だけであり、痛みのクオリアを引き合いに出す必要がない。だがもしC-fiberの励起と痛みのクオリアが同一である場合には、C-fiberの励起によって行為を説明するとは、痛みのクオリアを使って行為を説明することと等価となる。)

科学者が、ある神経上の出来事の原因を特定しようとしているとする。彼女はその物理的原因を見つけることが困難であっても、だからと言って非物理的な意識に原因を求めることはないだろう。つまり、実務上、科学者は、

神経・物理領域における因果・説明の閉鎖性: もし神経・物理的な出来事に原因か、因果的説明があるなら、それは神経・物理的な原因ないし因果的説明である

という原則に導かれている。これは科学者は

方法論的クオリア随伴現象説: もしクオリアが神経・物理的な性質に還元できないなら、クオリアを神経・物理的な出来事に対する原因や因果的説明に用いるべきではない。

を採っていることを意味する。

したがって、2への回答はNOとなる。現象論的意識は、科学的には随伴現象として扱われていて、物理的に還元できないなら、説明の役割を果たすことはない。一方で、アクセス意識については、説明の役割を果たす。

意識は科学によって研究されるのか?

クオリアの科学的理論はあるか? これまでの議論から明らかのように、答えはNOである。もしクオリアが随伴現象であるなら、そもそも、クオリアと脳状態の間の相関があることを実証することはできない。

では、どのようにクオリアが進化したか? と問うてみよう。もしクオリアが本当に随伴現象である、つまり、因果的な効力を持たないなら、それは進化上の適応力(自然淘汰における生存確率を上げる力)を持たない。そのため、進化論的には、クオリアは偶然による進化(スパンドレル効果と呼ばれる)をしたと考えざるを得ない。

まとめると、この章では、科学においては、実質的にクオリア随伴現象説が採用されることを見た。これまで科学は多くの事柄を解明してきたのだから、将来的に意識も科学的に解明されるだろうと楽観的な考えを持つ科学者・哲学者は多い。しかし彼らのほとんどは、アクセス意識としての意識を念頭に持っている。クオリアを因果的効力を持たないものだと捉える限り、意識の研究者が何を調査し理論化したとしても、それはクオリアではあり得ない。したがってクオリアを科学的に解明することは一切できないことを意味する。


個人的なメモ。クオリアを因果的効力を持たないものだと捉える限り、クオリアを科学的に研究することは不可能であるというKimの結論は自明だが重要な点だと思う。なぜなら「脳科学クオリアを解明する」というような論はしばしばみられることを考えると、多くの人が実際に概念的に混乱してしまっているのだから。個人的には、クオリアという哲学的概念は混乱の産物であって、「因果的効力を持たないものを、感じたりあると信じたりするというようなことがどうして起こるのか」、あるいは、「感じているものやあると信じているものが、因果的効力を持たないと思うようになるのはどのようにしてか」、というような路線で考えていくことで解消できるようなものではないかと思っている。