天才科学者Maryが知らなかったこと – Jaegwon Kim, philosophy of mind
Jaegwon Kim, "philosophy of mind" の意識と心身問題について書かれた章(チャプター10)の読書ノート、その6です。
Frank Jacksonは「Maryの部屋」(1982)という思考実験で、現象論的意識は物理主義によって捉えられないとして、物理主義を批判するという主張をした。
Jacksonがここで批判する物理主義は、「全ての正しい情報とは、物理的な情報である」という、認識論的物理主義と言えるものである。Jacksonがここで使用する「情報」の明確な定義は与えられていないが、「知識」と言い換えて良いものであるとして使用されている。
Maryの部屋の骨子は以下である。
- Maryは天才科学者であり、人間の視覚についてのすべての物理情報を知っているとする。しかしMaryは訳あって色のない、白黒の部屋でずっと生活をしていたとする。
- Maryが初めて白黒の部屋を出て、熟したトマトなど、色のついたものを自分の目で初めて見たとする。このとき、Maryは新しい情報(知識)を得た。
- したがって、この時Maryが得た新しい情報は、物理情報はない。
- したがって、物理主義は誤りである。
この議論は知識論法と呼ばれている。Jacksonが批判している物理主義は認識論的物理主義であるが、対比して、形而上学的物理主義というものを定義することができる。形而上学的物理主義は、「全ての事実は、物理的な事実である」というものである。通常、物理主義を指示する哲学者に念頭にあるのは形而上学的物理主義の方であろう。
Maryの部屋について、二つの問いを立てることができる。
- 論証は正しいか?
- もし論証が正しいとした時(つまり、認識論的物理主義が誤りだとした時)、形而上学的物理主義も誤っていることになるか?
論証は正しいか?
Maryの論証においてしばしば疑義が出されるのは、二番目の、Maryが新しい知識を得たという部分である。影響力のある批判は、Maryが得たのは、命題的な知識ではなく、能力のセットであるとする主張である。これは能力仮説(ability hypothesis)と呼ばれている。
なぜ能力仮説によればMaryは命題的知識を得ていないと言えるのだろうか? Maryが新しく知ったことを明文化してみよう。それは「トマトは赤い」という命題ではない。なぜならそれは物理学的な知識としてすでにMaryが持っていたものであるからである。表現するとしたら、「赤色はこのように見える」のような指示語を使ったものにしかならないだろう。これは客観的な情報を表す命題になっていない。このように能力仮説はMaryが新しい知識を得たという主張を批判する。
しかし、Jacksonの知識論法の支持者にとっては、Maryが得た知識を指示語なしで表現できないということは、Maryが得た知識が客観的でなく主観的な知識であることを反映しているだけなのであるから、能力仮説の批判は有効なものではない。
この論争は決着がついていない。物理主義者にとっては、能力仮説は一つの選択肢であると言えよう。
Maryの部屋は形而上学的物理主義に対する批判になっているか?
物理主義者は、Maryが得た新しい知識は、非物理的な事実についてのものではなく、既知の物理的事実を新しい視点から知ったものであると主張することができる。例えば、あなたは水が火を消すことを知っていたが、水がH2Oであることは知らなかったとする。あなたが水がH2Oであることを知った時、H2Oが火を消すという新しい事実も知ったことになるのだろうか? そうはならない。「H2Oが火を消す」は「水が火を消す」ということで表現されている事実を別の方法で記述したものに過ぎない。
したがって、知識論法は、形而上学的物理主義への批判にはなっていない。
Kimは形而上学的物理主義に問題がないと主張しているわけではない。形而上学的物理主義は、心理・物理の同一説と同じ難点を共有している。