科学と哲学のブログ

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相対主義と真理相対主義 (Relativism and Alethic Relativism)

この文章は、以前Courseraのrelativismのlectureのために提出したレポートの日本語訳です。


相対主義とは何か。相対主義は、歴史上様々な哲学者と非哲学者が、様々な形態で主張をしてきた立場の総称であるので、はっきりと定義を与えること自体難しいが、以下のような定式化が考えられる。concepts, facts, truth, good, ethics, permissibility, justification or knowledgeなどの哲学的上重要かつ基本的な要素の値xが、少なくともある領域においては、絶対的なものではなく、人々のものの考え方についての何らかの変数yに依存する、すなわち相対的であると主張する哲学的立場である。具体的な変数yとしては、languages, descriptions, cultures, subjective evaluative standardsなどが主張されてきた。相対主義ではさらに、xやyは唯一ではなく多様な値を取ること、yの値の良し悪しを評価する中立的な基準が存在しないこと、そしてそのような多様なyの値によって定まるxの値はどれも等しく妥当であることが含意される。

相対主義のモチベーションも多様であるが、大きく4つ挙げる。1) まず少なくともある領域においては、人々は、どの陣営も誤ることなしに、反対意見を持つことがある。(嗜好、倫理、認識の基準など。) 相対主義はこれら誤りのない反対意見が生じる事態を説明することができると考えられる。2) また、直接意見が衝突することはなくても、文化や時代を跨ぐことで正しいとされたり真実であるとされるものが異なることがある。相対主義はこの文化や時代における違いを説明することができると考えられる。3) 次に観察だけから理論を決定することはできないとするQuine-Duhemのテーゼは、科学においてすら中立的な観点が存在しないことを示唆し、それゆえ相対主義を示唆すると考えられる。4) 最後に他者や他の文化に対する寛容さを持つことを要求すると思われる点で倫理的に相対主義は妥当であろうという見解がある。

Alethic Relativismとは何か。人類の歴史上様々な相対主義が提案されてきたが、値xやパラメタyのクラスで分類することができる。Alethic Relativismとは、値xが様々な発言や主張に対する真理値の場合における相対主義である。Alethic Relativismは、他のxのクラスの相対主義を包含するものであると考えられるから、すべての相対主義の議論の基礎を提供しうるという点で重要である。

古代ギリシアのAlethic Relativismとその批判について。古代ギリシアプロタゴラスが、人間は万物の尺度であると主張したのが最初のAlethic Relativismであると言われる。このプロタゴラスのRelaivismは、任意の発言Uの真理値xは、発話者個人の主観的な評価基準(y)に依存するという主張である。プロタゴラス相対主義は、すべての発言Uが相対的であると主張しているという点で、Global Relativismと呼ばれる。Global Relativismには、自己反駁的であるとする致命的な批判が存在する。この批判の詳細はいくつか形態があるものの端的には、Global Relativismを主張する人物は、Global Relativismに対しても相対主義を適用しなければならないため、Global Relativismを絶対的に採用するべきであると主張をすることができない、とする議論である。これは同時代人であるプラトンが最初に構成した論証である。現代哲学においても、Global Relativismをconsistentに主張することはできないと広く認識されている。Global Relativismに対比して、あるdomain(嗜好、倫理や認識の基準など)に限って相対主義を主張するのがLocal Relativismである。Local RelativismはLocal relativism自身にrelativismを適用することはないため、自己反駁的であるという批判からは免れている。ではLocal RelativismとしてのAlethic Relativismは首尾一貫した形で定式化できるのであろうか? 現代ではこの問いに回答しようという試みがあり、"New Relativism"と呼ばれている。

New Relativismとは何か。New Relativismは分析哲学的な手法で、相対主義と適合する真理概念を定式化しようという最近の試みである。代表的なNew Relativismの論者はMax Kobel(2002)やJohn MacFarlane(2014)などである。この動機を説明するために、“Action X is wrong”という形式の主張について考えてみよう。この主張は特定の評価基準に言及していない。しかし、相対主義の立場からは、この主張は絶対的な真理についてのものではなく、暗黙に仮定されている倫理的枠組みに相対的なものであると解釈したい。これをどう分析哲学言語哲学的に説明できるだろうか? New Relativism以前には、Gilbert Harman(1996)は、"Action X is wrong"という主張は、“Action X is wrong according to the moral system I accept” という主張と等価であると説明した。これにはある程度相対主義的直観を満たすが、誤りの無い意見の相違が起こり得るという相対主義として描きたい状況をうまく説明できていない。なぜか。Aは"Action X is wrong"と言うが、Bは"Action X is not wrong"と言うという、誤りの無い意見の相違が起こっているという状況を想定したとき、実際には彼らは"Action X is (not) wrong according to the moral system I accept"ということを主張していたのだとしよう。すると別の倫理的基準に基づけばAction Xが正しいかどうかが変わるのは当然であるから、意見の相違があったとは言えない。New Relativismの提示する真理概念はHarmanの説明のこのような難点を克服し誤りの無い意見の相違を説明するものであるとされる。

New Relaivismの提示する真理概念はどんなものか。KolbelもMacFarlaneも、"X is tasty." という主張の意味をHarmanのように翻訳することはせず、文字通りの意味で理解すると主張する。しかしながら、この主張の真理値が、この主張を評価する観点(context of assessment)によって相対的に変化すると主張する。ではその観点は何か? Kolbelは、ある主張の真理値を決定する観点は、その主張を発言した人が発言を行った時点で保持していた観点であるとする。MacFarlaneは、その観点は、その発言を評価する文脈次第でどのようにもなりうる第三者の観点であるとする。いずれにせよ、"X is tasty."という主張の意味は文字通り理解されるのだから、誤りの無い意見の相違という状況を説明できるであろうというのがNew Relativismの根幹の主張である。

New Relativismに対する批判。しかしながら、New Relativismが誤りの無い意見の相違を説明できるとするのは見かけだけの話で、実際には失敗しているという批判が存在する。Kolbelに対しては、"X is (not) tasty"とAやBが主張するとき、結局その真理値がその話者の観点に依存するのであれば、Harmanの説明同様、意見の相違が起きていることを説明できないかもしれない。MacFarlaneに対しては、AとBの発言両方をある特定の第三者の観点で評価するとき、意見の相違は起きていると言えるが、誤りのなさは説明できない。またRetractionという言語実践に関しては、Kolbelの説では説明できないがMacFarlaneの説では説明できる。

最後に自分の意見を付け加えておきたい。New Relativismは確かにRelativismに通常求められる真理概念を上手く説明できないということは認めたいが、一方で、New Relativismの相対的な真理概念は、客観的な真理概念が適用される命題群から真理概念を拡張するものとして自然かつ妥当であろうと思う。Relativismを構成するための要件とされるもの(faultless disagreementなど)が厳しすぎるのだと思う。New Relativistsの戦略は、New Relativismの真理概念に適合するようにRelativismの要件の方を緩和しても我々の相対主義的直観は十分保たれるということを説得しようという戦略なのだと思うが、自分はこの方針を指示したい。