科学と哲学のブログ

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物理主義の限界 – Jaegwon Kim, philosophy of mind

Jaegwon Kim, "philosophy of mind" の意識と心身問題について書かれた章(チャプター10)の読書ノート、その7です。これでチャプター10は終了です。


もし同一説が正しければ、つまり、痛みとC-fiberの励起が同一であるといったようなことが正しければ、ハードプロブレムは解決するし、心的性質が因果的効力を持つことになり、随伴現象説を否定することにもなる。(随伴現象説は、クオリアが因果的効力を持たないという説である。)

では、機能分析的アプローチが正しい場合はどうか? この場合も、心的性質が因果的効力を持つと言える。機能分析的アプローチにおいては、痛みを感じている状態とは、痛みの因果的役割を持つ状態である、というような形で定義される。(機能分析的アプローチは「痛みの因果的役割」を詳述する必要があるが、それが十分にできたとここでは仮定する。)そして、人間にとってC-fiberの励起は、その因果的役割を果たすことが神経・物理的な研究によって明らかになったとする。したがって、C-fiberの励起は、人間にとって痛みの状態である、と論証される。機能分析的アプローチにおいては、クオリアを含む心的性質の定義を因果的役割によって与えるのだから、当然、心的性質は因果的効力を持ち、それゆえ、ハードプロブレムは解決し、随伴現象説は否定される。*1

したがって、同一説も、機能分析も、どちらも、物理的還元(還元あるいは還元的説明)を実現する方法である。とはいえ、これらの説が妥当であることを意味するわけではなく、どちらも、妥当性は別途検証されなければならない。

ここで、心的性質を分解して、還元可能であるものとそうでないものに振り分けることを考えよう。

心的性質は、大別して以下の二つに分けられると考えられている。

  1. 現象的出来事、経験 (クオリアを伴う状態): 感覚、質的な性質
  2. 志向的・認知的状態 (命題的態度): 信念、欲求、意図

Chalmersの見解では、前者は還元不可能であるが、後者は可能である。後者は、多重実現可能性により、同一性によって還元することはできないが、機能分析によって還元可能であると考えられている。信念、欲求、意図などの概念に対して、機能的な定義を完全に与えることはできていないという批判は可能である。しかし少なくとも、機能的に理解されている概念であると言うことはできる。なぜか? 二つの理由を挙げることができる。一つ目の理由は、現象的意識を持たない哲学的ゾンビであっても、志向的・認知的状態にあると思われるからである。通常の人間と同じように活動し、言語を使うならば、志向的・認知的状態に無いとするのは概念的に不合理である。すなわち、志向的・認知的状態は、物理的に付随した状態なのである。二つ目の理由は、物体を認識してタスクをこなすような人工知能やロボットを作ることは原理的に可能であると思われるということである。それらが十分複雑なタスクをこなすならば、志向的・認知的状態には無いとするのはやはり概念的に不合理だと思われる。

機能分析による還元に対する批判には、機能的定義は決して完全に与えることはできないだろう、というものがある。Kimにはこの批判に対して2つの反論を挙げる。 1. 本質的に、志向的・認知的状態の因果的タスクは、定まっていない(open-ended)であるから。タスクを完全に記述しきることは不可能であっても、機能的な概念以外のものが「信念」などの志向的・認知的概念に含まれているようには思えない。 2. 「信念」などの志向的・認知的概念も時代とともに変化する。何が信念の本質的な機能であって、何がそれ以外の付属的な性質なのかという境界を明確に線引きすることができない。

では、前者の現象的出来事、すなわちクオリアはどうだろうか? ロボットに、身体的損傷を認識させ、忌避反応を取らせることは、ロボットエンジニアに実行可能であろう。しかしそれだけでなく、痛みを経験させることはできるだろうか? 優秀なロボットエンジニアでも、これはどうすれば良いかわからないであろう。これは、痛みの経験の機能的定義(=職務内容、job description)が存在しないということを示唆している。

哲学的ゾンビ仮説が可能かどうかには議論の余地があるが、クオリア反転は可能である、とKimは考えている。*2ここではクオリア反転が本当に可能である(possible)ことを認めなくても、想定可能である(conceivable)ことさえ受け入れるなら、クオリアの機能的定義を与えることができないことを受け入れることになる。痛みにも確かに機能があるが、痛まないものは痛みではないように思われる。(Nothing can be a pain unless it hurts.)

では、クオリアの同一説は可能だろうか? 結論としては同一説には欠点と不十分さがあり、有望ではない。(多重実現可能性がクオリアの同一説の批判になるだろうか?必ずしもそうではないと考えられている。確かにPutnamは、多重実現可能性の議論を最初に導入した時、痛みの概念を用いて論証した。しかし、Christopher Hillは、クオリアを神経・生物学的基盤に結びつけて、クオリアの多重実現可能性を否定する説を提唱している。多重実現可能性の議論から同一説批判を行う議論は、志向的状態によりよく適合する。)

これまでの議論では、クオリアは物理的に還元する方法を提示することができなかった。しかし、意図的・志向的状態が還元可能であり、随伴現象説を否定できることが分かっただけでも、大きな達成であると言えるだろう。つまり、我々が行為者(agent)であり、認知者(cognizer)であるとことは、物理的に説明可能である。

感覚またはクオリアに対する還元的アプローチとしては、高次の知覚・思考理論(higher-order perception./thought theory)や、クオリア表象説があるが、どちらもうまくいうくは明らかではない。

クオリアそのものの質感を機能的に還元する方法は提示できないが、クオリアを識別する能力(例えば、赤のクオリアと緑のクオリアを区別する能力)に関しては、機能的に定義可能であることは指摘できる。したがって、物理主義で説明可能なものは、意図的・志向的状態と、現象的状態の内で、クオリアを識別する能力である。一方で、クオリアそのものついては、物理主義で説明不可能なように考えられる。これが物理主義の限界である。

*1:本節でKimが主張している、機能分析的アプローチは随伴現象説と相入れないという点は、意識と脳科学 – Jaegwon Kim, philosophy of mind - 科学と哲学のブログ においてKimが主張していた点と整合していないように見えるかも知れない。しかし不整合はないことを説明する。Kimは同一説が正しくない限り、科学はクオリアを因果的効力があるとみなさないし、因果的説明にも利用しない、とリンク先の節では主張している。つまり、仮に機能分析的アプローチが正しいとしても、科学で採用される方法論的随伴現象説は痛みのクオリアについて言及することはない。Kimの主張を整合的に理解するためには、方法論的随伴現象説は、ここで言及されている随伴現象説(哲学的随伴現象説と呼ぼう)と異なると捉える必要がある。哲学的随伴現象説は、クオリアが因果的効力を持たないことを主張するのに対し、方法論的随伴現象説は、クオリアが因果的効力を持っていたとしても、クオリアを用いずに物理的性質だけで因果性を議論できるという主張である。哲学的随伴現象説から方法論的随伴現象説は帰結するが、逆は成り立たない。

*2:Kimは、クオリア反転が想定可能(conceivable)なだけではなく、本当に可能である(possible)と考えている。