科学と哲学のブログ

哲学、科学について書いていきます

相対主義と真理相対主義 (Relativism and Alethic Relativism)

この文章は、以前Courseraのrelativismのlectureのために提出したレポートの日本語訳です。


相対主義とは何か。相対主義は、歴史上様々な哲学者と非哲学者が、様々な形態で主張をしてきた立場の総称であるので、はっきりと定義を与えること自体難しいが、以下のような定式化が考えられる。concepts, facts, truth, good, ethics, permissibility, justification or knowledgeなどの哲学的上重要かつ基本的な要素の値xが、少なくともある領域においては、絶対的なものではなく、人々のものの考え方についての何らかの変数yに依存する、すなわち相対的であると主張する哲学的立場である。具体的な変数yとしては、languages, descriptions, cultures, subjective evaluative standardsなどが主張されてきた。相対主義ではさらに、xやyは唯一ではなく多様な値を取ること、yの値の良し悪しを評価する中立的な基準が存在しないこと、そしてそのような多様なyの値によって定まるxの値はどれも等しく妥当であることが含意される。

相対主義のモチベーションも多様であるが、大きく4つ挙げる。1) まず少なくともある領域においては、人々は、どの陣営も誤ることなしに、反対意見を持つことがある。(嗜好、倫理、認識の基準など。) 相対主義はこれら誤りのない反対意見が生じる事態を説明することができると考えられる。2) また、直接意見が衝突することはなくても、文化や時代を跨ぐことで正しいとされたり真実であるとされるものが異なることがある。相対主義はこの文化や時代における違いを説明することができると考えられる。3) 次に観察だけから理論を決定することはできないとするQuine-Duhemのテーゼは、科学においてすら中立的な観点が存在しないことを示唆し、それゆえ相対主義を示唆すると考えられる。4) 最後に他者や他の文化に対する寛容さを持つことを要求すると思われる点で倫理的に相対主義は妥当であろうという見解がある。

Alethic Relativismとは何か。人類の歴史上様々な相対主義が提案されてきたが、値xやパラメタyのクラスで分類することができる。Alethic Relativismとは、値xが様々な発言や主張に対する真理値の場合における相対主義である。Alethic Relativismは、他のxのクラスの相対主義を包含するものであると考えられるから、すべての相対主義の議論の基礎を提供しうるという点で重要である。

古代ギリシアのAlethic Relativismとその批判について。古代ギリシアプロタゴラスが、人間は万物の尺度であると主張したのが最初のAlethic Relativismであると言われる。このプロタゴラスのRelaivismは、任意の発言Uの真理値xは、発話者個人の主観的な評価基準(y)に依存するという主張である。プロタゴラス相対主義は、すべての発言Uが相対的であると主張しているという点で、Global Relativismと呼ばれる。Global Relativismには、自己反駁的であるとする致命的な批判が存在する。この批判の詳細はいくつか形態があるものの端的には、Global Relativismを主張する人物は、Global Relativismに対しても相対主義を適用しなければならないため、Global Relativismを絶対的に採用するべきであると主張をすることができない、とする議論である。これは同時代人であるプラトンが最初に構成した論証である。現代哲学においても、Global Relativismをconsistentに主張することはできないと広く認識されている。Global Relativismに対比して、あるdomain(嗜好、倫理や認識の基準など)に限って相対主義を主張するのがLocal Relativismである。Local RelativismはLocal relativism自身にrelativismを適用することはないため、自己反駁的であるという批判からは免れている。ではLocal RelativismとしてのAlethic Relativismは首尾一貫した形で定式化できるのであろうか? 現代ではこの問いに回答しようという試みがあり、"New Relativism"と呼ばれている。

New Relativismとは何か。New Relativismは分析哲学的な手法で、相対主義と適合する真理概念を定式化しようという最近の試みである。代表的なNew Relativismの論者はMax Kobel(2002)やJohn MacFarlane(2014)などである。この動機を説明するために、“Action X is wrong”という形式の主張について考えてみよう。この主張は特定の評価基準に言及していない。しかし、相対主義の立場からは、この主張は絶対的な真理についてのものではなく、暗黙に仮定されている倫理的枠組みに相対的なものであると解釈したい。これをどう分析哲学言語哲学的に説明できるだろうか? New Relativism以前には、Gilbert Harman(1996)は、"Action X is wrong"という主張は、“Action X is wrong according to the moral system I accept” という主張と等価であると説明した。これにはある程度相対主義的直観を満たすが、誤りの無い意見の相違が起こり得るという相対主義として描きたい状況をうまく説明できていない。なぜか。Aは"Action X is wrong"と言うが、Bは"Action X is not wrong"と言うという、誤りの無い意見の相違が起こっているという状況を想定したとき、実際には彼らは"Action X is (not) wrong according to the moral system I accept"ということを主張していたのだとしよう。すると別の倫理的基準に基づけばAction Xが正しいかどうかが変わるのは当然であるから、意見の相違があったとは言えない。New Relativismの提示する真理概念はHarmanの説明のこのような難点を克服し誤りの無い意見の相違を説明するものであるとされる。

New Relaivismの提示する真理概念はどんなものか。KolbelもMacFarlaneも、"X is tasty." という主張の意味をHarmanのように翻訳することはせず、文字通りの意味で理解すると主張する。しかしながら、この主張の真理値が、この主張を評価する観点(context of assessment)によって相対的に変化すると主張する。ではその観点は何か? Kolbelは、ある主張の真理値を決定する観点は、その主張を発言した人が発言を行った時点で保持していた観点であるとする。MacFarlaneは、その観点は、その発言を評価する文脈次第でどのようにもなりうる第三者の観点であるとする。いずれにせよ、"X is tasty."という主張の意味は文字通り理解されるのだから、誤りの無い意見の相違という状況を説明できるであろうというのがNew Relativismの根幹の主張である。

New Relativismに対する批判。しかしながら、New Relativismが誤りの無い意見の相違を説明できるとするのは見かけだけの話で、実際には失敗しているという批判が存在する。Kolbelに対しては、"X is (not) tasty"とAやBが主張するとき、結局その真理値がその話者の観点に依存するのであれば、Harmanの説明同様、意見の相違が起きていることを説明できないかもしれない。MacFarlaneに対しては、AとBの発言両方をある特定の第三者の観点で評価するとき、意見の相違は起きていると言えるが、誤りのなさは説明できない。またRetractionという言語実践に関しては、Kolbelの説では説明できないがMacFarlaneの説では説明できる。

最後に自分の意見を付け加えておきたい。New Relativismは確かにRelativismに通常求められる真理概念を上手く説明できないということは認めたいが、一方で、New Relativismの相対的な真理概念は、客観的な真理概念が適用される命題群から真理概念を拡張するものとして自然かつ妥当であろうと思う。Relativismを構成するための要件とされるもの(faultless disagreementなど)が厳しすぎるのだと思う。New Relativistsの戦略は、New Relativismの真理概念に適合するようにRelativismの要件の方を緩和しても我々の相対主義的直観は十分保たれるということを説得しようという戦略なのだと思うが、自分はこの方針を指示したい。

物理主義の限界 – Jaegwon Kim, philosophy of mind

Jaegwon Kim, "philosophy of mind" の意識と心身問題について書かれた章(チャプター10)の読書ノート、その7です。これでチャプター10は終了です。


もし同一説が正しければ、つまり、痛みとC-fiberの励起が同一であるといったようなことが正しければ、ハードプロブレムは解決するし、心的性質が因果的効力を持つことになり、随伴現象説を否定することにもなる。(随伴現象説は、クオリアが因果的効力を持たないという説である。)

では、機能分析的アプローチが正しい場合はどうか? この場合も、心的性質が因果的効力を持つと言える。機能分析的アプローチにおいては、痛みを感じている状態とは、痛みの因果的役割を持つ状態である、というような形で定義される。(機能分析的アプローチは「痛みの因果的役割」を詳述する必要があるが、それが十分にできたとここでは仮定する。)そして、人間にとってC-fiberの励起は、その因果的役割を果たすことが神経・物理的な研究によって明らかになったとする。したがって、C-fiberの励起は、人間にとって痛みの状態である、と論証される。機能分析的アプローチにおいては、クオリアを含む心的性質の定義を因果的役割によって与えるのだから、当然、心的性質は因果的効力を持ち、それゆえ、ハードプロブレムは解決し、随伴現象説は否定される。*1

したがって、同一説も、機能分析も、どちらも、物理的還元(還元あるいは還元的説明)を実現する方法である。とはいえ、これらの説が妥当であることを意味するわけではなく、どちらも、妥当性は別途検証されなければならない。

ここで、心的性質を分解して、還元可能であるものとそうでないものに振り分けることを考えよう。

心的性質は、大別して以下の二つに分けられると考えられている。

  1. 現象的出来事、経験 (クオリアを伴う状態): 感覚、質的な性質
  2. 志向的・認知的状態 (命題的態度): 信念、欲求、意図

Chalmersの見解では、前者は還元不可能であるが、後者は可能である。後者は、多重実現可能性により、同一性によって還元することはできないが、機能分析によって還元可能であると考えられている。信念、欲求、意図などの概念に対して、機能的な定義を完全に与えることはできていないという批判は可能である。しかし少なくとも、機能的に理解されている概念であると言うことはできる。なぜか? 二つの理由を挙げることができる。一つ目の理由は、現象的意識を持たない哲学的ゾンビであっても、志向的・認知的状態にあると思われるからである。通常の人間と同じように活動し、言語を使うならば、志向的・認知的状態に無いとするのは概念的に不合理である。すなわち、志向的・認知的状態は、物理的に付随した状態なのである。二つ目の理由は、物体を認識してタスクをこなすような人工知能やロボットを作ることは原理的に可能であると思われるということである。それらが十分複雑なタスクをこなすならば、志向的・認知的状態には無いとするのはやはり概念的に不合理だと思われる。

機能分析による還元に対する批判には、機能的定義は決して完全に与えることはできないだろう、というものがある。Kimにはこの批判に対して2つの反論を挙げる。 1. 本質的に、志向的・認知的状態の因果的タスクは、定まっていない(open-ended)であるから。タスクを完全に記述しきることは不可能であっても、機能的な概念以外のものが「信念」などの志向的・認知的概念に含まれているようには思えない。 2. 「信念」などの志向的・認知的概念も時代とともに変化する。何が信念の本質的な機能であって、何がそれ以外の付属的な性質なのかという境界を明確に線引きすることができない。

では、前者の現象的出来事、すなわちクオリアはどうだろうか? ロボットに、身体的損傷を認識させ、忌避反応を取らせることは、ロボットエンジニアに実行可能であろう。しかしそれだけでなく、痛みを経験させることはできるだろうか? 優秀なロボットエンジニアでも、これはどうすれば良いかわからないであろう。これは、痛みの経験の機能的定義(=職務内容、job description)が存在しないということを示唆している。

哲学的ゾンビ仮説が可能かどうかには議論の余地があるが、クオリア反転は可能である、とKimは考えている。*2ここではクオリア反転が本当に可能である(possible)ことを認めなくても、想定可能である(conceivable)ことさえ受け入れるなら、クオリアの機能的定義を与えることができないことを受け入れることになる。痛みにも確かに機能があるが、痛まないものは痛みではないように思われる。(Nothing can be a pain unless it hurts.)

では、クオリアの同一説は可能だろうか? 結論としては同一説には欠点と不十分さがあり、有望ではない。(多重実現可能性がクオリアの同一説の批判になるだろうか?必ずしもそうではないと考えられている。確かにPutnamは、多重実現可能性の議論を最初に導入した時、痛みの概念を用いて論証した。しかし、Christopher Hillは、クオリアを神経・生物学的基盤に結びつけて、クオリアの多重実現可能性を否定する説を提唱している。多重実現可能性の議論から同一説批判を行う議論は、志向的状態によりよく適合する。)

これまでの議論では、クオリアは物理的に還元する方法を提示することができなかった。しかし、意図的・志向的状態が還元可能であり、随伴現象説を否定できることが分かっただけでも、大きな達成であると言えるだろう。つまり、我々が行為者(agent)であり、認知者(cognizer)であるとことは、物理的に説明可能である。

感覚またはクオリアに対する還元的アプローチとしては、高次の知覚・思考理論(higher-order perception./thought theory)や、クオリア表象説があるが、どちらもうまくいうくは明らかではない。

クオリアそのものの質感を機能的に還元する方法は提示できないが、クオリアを識別する能力(例えば、赤のクオリアと緑のクオリアを区別する能力)に関しては、機能的に定義可能であることは指摘できる。したがって、物理主義で説明可能なものは、意図的・志向的状態と、現象的状態の内で、クオリアを識別する能力である。一方で、クオリアそのものついては、物理主義で説明不可能なように考えられる。これが物理主義の限界である。

*1:本節でKimが主張している、機能分析的アプローチは随伴現象説と相入れないという点は、意識と脳科学 – Jaegwon Kim, philosophy of mind - 科学と哲学のブログ においてKimが主張していた点と整合していないように見えるかも知れない。しかし不整合はないことを説明する。Kimは同一説が正しくない限り、科学はクオリアを因果的効力があるとみなさないし、因果的説明にも利用しない、とリンク先の節では主張している。つまり、仮に機能分析的アプローチが正しいとしても、科学で採用される方法論的随伴現象説は痛みのクオリアについて言及することはない。Kimの主張を整合的に理解するためには、方法論的随伴現象説は、ここで言及されている随伴現象説(哲学的随伴現象説と呼ぼう)と異なると捉える必要がある。哲学的随伴現象説は、クオリアが因果的効力を持たないことを主張するのに対し、方法論的随伴現象説は、クオリアが因果的効力を持っていたとしても、クオリアを用いずに物理的性質だけで因果性を議論できるという主張である。哲学的随伴現象説から方法論的随伴現象説は帰結するが、逆は成り立たない。

*2:Kimは、クオリア反転が想定可能(conceivable)なだけではなく、本当に可能である(possible)と考えている。

天才科学者Maryが知らなかったこと – Jaegwon Kim, philosophy of mind

Jaegwon Kim, "philosophy of mind" の意識と心身問題について書かれた章(チャプター10)の読書ノート、その6です。


Frank Jacksonは「Maryの部屋」(1982)という思考実験で、現象論的意識は物理主義によって捉えられないとして、物理主義を批判するという主張をした。

Jacksonがここで批判する物理主義は、「全ての正しい情報とは、物理的な情報である」という、認識論的物理主義と言えるものである。Jacksonがここで使用する「情報」の明確な定義は与えられていないが、「知識」と言い換えて良いものであるとして使用されている。

Maryの部屋の骨子は以下である。

  1. Maryは天才科学者であり、人間の視覚についてのすべての物理情報を知っているとする。しかしMaryは訳あって色のない、白黒の部屋でずっと生活をしていたとする。
  2. Maryが初めて白黒の部屋を出て、熟したトマトなど、色のついたものを自分の目で初めて見たとする。このとき、Maryは新しい情報(知識)を得た。
  3. したがって、この時Maryが得た新しい情報は、物理情報はない。
  4. したがって、物理主義は誤りである。

この議論は知識論法と呼ばれている。Jacksonが批判している物理主義は認識論的物理主義であるが、対比して、形而上学的物理主義というものを定義することができる。形而上学的物理主義は、「全ての事実は、物理的な事実である」というものである。通常、物理主義を指示する哲学者に念頭にあるのは形而上学的物理主義の方であろう。

Maryの部屋について、二つの問いを立てることができる。

  1. 論証は正しいか?
  2. もし論証が正しいとした時(つまり、認識論的物理主義が誤りだとした時)、形而上学的物理主義も誤っていることになるか?

論証は正しいか?

Maryの論証においてしばしば疑義が出されるのは、二番目の、Maryが新しい知識を得たという部分である。影響力のある批判は、Maryが得たのは、命題的な知識ではなく、能力のセットであるとする主張である。これは能力仮説(ability hypothesis)と呼ばれている。

なぜ能力仮説によればMaryは命題的知識を得ていないと言えるのだろうか? Maryが新しく知ったことを明文化してみよう。それは「トマトは赤い」という命題ではない。なぜならそれは物理学的な知識としてすでにMaryが持っていたものであるからである。表現するとしたら、「赤色はこのように見える」のような指示語を使ったものにしかならないだろう。これは客観的な情報を表す命題になっていない。このように能力仮説はMaryが新しい知識を得たという主張を批判する。

しかし、Jacksonの知識論法の支持者にとっては、Maryが得た知識を指示語なしで表現できないということは、Maryが得た知識が客観的でなく主観的な知識であることを反映しているだけなのであるから、能力仮説の批判は有効なものではない。

この論争は決着がついていない。物理主義者にとっては、能力仮説は一つの選択肢であると言えよう。

Maryの部屋は形而上学的物理主義に対する批判になっているか?

物理主義者は、Maryが得た新しい知識は、非物理的な事実についてのものではなく、既知の物理的事実を新しい視点から知ったものであると主張することができる。例えば、あなたは水が火を消すことを知っていたが、水がH2Oであることは知らなかったとする。あなたが水がH2Oであることを知った時、H2Oが火を消すという新しい事実も知ったことになるのだろうか? そうはならない。「H2Oが火を消す」は「水が火を消す」ということで表現されている事実を別の方法で記述したものに過ぎない。

したがって、知識論法は、形而上学的物理主義への批判にはなっていない。


Kimは形而上学的物理主義に問題がないと主張しているわけではない。形而上学的物理主義は、心理・物理の同一説と同じ難点を共有している。

意識と脳科学 – Jaegwon Kim, philosophy of mind

Jaegwon Kim, "philosophy of mind" の意識と心身問題について書かれた章(チャプター10)の読書ノート、その5です。


意識と科学との関わりについて、次の3つの関連しているが異なる問いを立てることができる。

  1. 意識は科学によって説明されるか?
  2. 意識は科学において説明力を持っているか?
  3. 意識は科学によって研究されるのか?

意識は科学によって説明されるか

まず1について。もし意識の機能的定義を与えることができれば、還元的説明を与えることが可能であることは既にみた。したがって、1への回答は、もし機能的定義を与えることができ、かつ、もしその神経上の実装を特定することができれば、YESである。二つの「もし」のうち、前者は哲学上の問題、後者は科学上の問題である。学習、記憶、自己意識といったような意識の側面に対しては、機能的定義はうまくいくと考えられている一方で、痛みのようなクオリアに対して、体の損傷を原因として忌避行動を結果に持つような状態として定義するような、よく引き合いに出されるような素朴な機能的定義を与えることはうまくいかないと考えられている。クオリアに対するより見込みのある機能的なアプローチとしては、クオリア表象主義がある。この説はクオリアは表象であると主張するのだが、表象は一種の機能的概念であるとみなせるので、機能的なアプローチの一種であると言える。

クオリア表象主義者のChristopher Hillによれば、痛みの経験は身体の不調を表象していて、痛みとは痛みの経験によって表象されているものである。したがって痛みとは身体の不調である。「身体が不調である」という命題は、痛みの経験の志向的対象(すなわち内容)になっているのである。この説は、痛みを感じているが実際には身体に不調はないというような事態も「誤った表象」(misrepresentation)として許容することができる。

このクオリアや意識の表象主義は、物理主義的に扱い易いが、しかしこの説で本当に痛みのクオリアの「痛みの感じ」を説明できているのか、疑問は残る。

意識は科学において説明力を持っているか?

次に2について。(この問いは例えば、ある人が恐怖を感じ心拍数が上がったいう出来事を考える。心拍数の増加という物的現象は、恐怖を感じたという心的現象が原因であるといった説明を与えることができるか?という問いである。)

Ned Blockが提案した分類によれば、意識にはアクセス意識と現象的意識という二つの側面があるとされる。アクセス意識とは、他の認知活動や行動に利用できるような情報処理能力のことである。(例えば、運転手は信号機に色を認識することで交通ルールを守って運転することができる。信号機の色の認識は、アクセス意識である。)一方で現象的意識とは、質的な感覚のことである。(上の例を続けると、運転手にとっての信号機の色の感覚そのものである。)アクセス意識は認知・心理学上の機能的な概念であるから、当然科学上の説明力を持っていると言える。しかし現象的意識はどうだろうか? クオリアは脳・行動科学において、説明的な役割を持つだろうか? また関連する問いとして、因果的な効力を持つだろうか? クオリアが神経状態に還元的な同一性を持たない限り、ありそうもない。(Kimは明言はしていないが、機能的定義による還元ではダメで、同一性による還元でない限り、クオリアは科学的に説明力を持たないと考えているように読み取れる。それには同意できる。何故なら、痛みのクオリアがC-fiberの励起であることが仮に機能的分析によって結果的に示されたとしても、人間の行動を科学的に説明する際に必要なのはC-fiberの励起だけであり、痛みのクオリアを引き合いに出す必要がない。だがもしC-fiberの励起と痛みのクオリアが同一である場合には、C-fiberの励起によって行為を説明するとは、痛みのクオリアを使って行為を説明することと等価となる。)

科学者が、ある神経上の出来事の原因を特定しようとしているとする。彼女はその物理的原因を見つけることが困難であっても、だからと言って非物理的な意識に原因を求めることはないだろう。つまり、実務上、科学者は、

神経・物理領域における因果・説明の閉鎖性: もし神経・物理的な出来事に原因か、因果的説明があるなら、それは神経・物理的な原因ないし因果的説明である

という原則に導かれている。これは科学者は

方法論的クオリア随伴現象説: もしクオリアが神経・物理的な性質に還元できないなら、クオリアを神経・物理的な出来事に対する原因や因果的説明に用いるべきではない。

を採っていることを意味する。

したがって、2への回答はNOとなる。現象論的意識は、科学的には随伴現象として扱われていて、物理的に還元できないなら、説明の役割を果たすことはない。一方で、アクセス意識については、説明の役割を果たす。

意識は科学によって研究されるのか?

クオリアの科学的理論はあるか? これまでの議論から明らかのように、答えはNOである。もしクオリアが随伴現象であるなら、そもそも、クオリアと脳状態の間の相関があることを実証することはできない。

では、どのようにクオリアが進化したか? と問うてみよう。もしクオリアが本当に随伴現象である、つまり、因果的な効力を持たないなら、それは進化上の適応力(自然淘汰における生存確率を上げる力)を持たない。そのため、進化論的には、クオリアは偶然による進化(スパンドレル効果と呼ばれる)をしたと考えざるを得ない。

まとめると、この章では、科学においては、実質的にクオリア随伴現象説が採用されることを見た。これまで科学は多くの事柄を解明してきたのだから、将来的に意識も科学的に解明されるだろうと楽観的な考えを持つ科学者・哲学者は多い。しかし彼らのほとんどは、アクセス意識としての意識を念頭に持っている。クオリアを因果的効力を持たないものだと捉える限り、意識の研究者が何を調査し理論化したとしても、それはクオリアではあり得ない。したがってクオリアを科学的に解明することは一切できないことを意味する。


個人的なメモ。クオリアを因果的効力を持たないものだと捉える限り、クオリアを科学的に研究することは不可能であるというKimの結論は自明だが重要な点だと思う。なぜなら「脳科学クオリアを解明する」というような論はしばしばみられることを考えると、多くの人が実際に概念的に混乱してしまっているのだから。個人的には、クオリアという哲学的概念は混乱の産物であって、「因果的効力を持たないものを、感じたりあると信じたりするというようなことがどうして起こるのか」、あるいは、「感じているものやあると信じているものが、因果的効力を持たないと思うようになるのはどのようにしてか」、というような路線で考えていくことで解消できるようなものではないかと思っている。

デネットのクオリア消去主義(1) – Quining Qualia (1988)

ダニエル・デネットの論文、Quining Qualia(1988)の読書ノートその1です。心の哲学において、クオリアという概念を否定する議論が展開されています。


1. Corralling the Quicksilver (水銀を囲い込む)

デネットクオリアというものは存在しないと主張する。この主張はより具体的にはどのようなものなのだろうか。

デネットは意識経験の実在性を否定するわけではない。デネットが主張するものは、意識経験がクオリアが特別であると考えられてきたような仕方で特別であるような性質は持っていないということ、である。

誰かが何かが、ある在り方であるのであって別の在り方であるのではないということを経験するときはいつでも、そのときに彼らの中で何かが起きているというなんらかの性質によって、そのことは真である。しかし、その性質は、伝統的に意識に対して帰属させられてきた性質とは全く異なっているので、それらの性質のいずれをも、長く探し求めていたクオリアと呼ぶのは非常に誤解を招きやすいのである。クオリアはなんらかの定義するのが難しい特別な性質であると思われている。私の主張は、意識経験が、クオリアが特別であると考えられてきたような仕方で特別であるような性質は持っていないということである。(Quining Qualia, Section 1)

デネットのこのような主張に対する標準的な応答は、一部の人は意識経験のあり方に混乱させられたり熱狂させられたりしてしまうけれども、それでも、穏当で無邪気な"主観的経験の性質"という概念は確かに安全だ、というものだ。しかしデネットはこの応答を自己満足の承認であると批判する。デネットはこの無邪気な想定こそ投げ捨てるべきものであるとする。現代の生物学者は、エランビタール(elan vital, 生の躍動)という無邪気な概念に訴えて問題ないとは全く考えない。デネットの目的は、クオリアも同じように扱われるようにすることだ。

クオリア(あるいは"生まの感覚(raw feels)"や"現象的性質"や"主観的かつ固有の性質"や"質的な特性")について、彼らがいったい何について話しているのかを誰もが知っているという標準的な前提を持って話すことを不快なものにしたい。(Quining Qualia, Section 1)

デネットの主張は、クオリアという理論的概念が曖昧だというものではなくて、クオリアという概念が純化していると思われている前理論的な(あるいは直観的な)概念が完全に混乱しているというものだ。

デネットは目的は前理論的で直観的な概念が誤っていることを示すということなので、彼が提示していくものは、厳密な論証ではなく、15個の直観ポンプ(直観に訴える思考実験)である。

機能的分析と還元的説明 – Jaegwon Kim, philosophy of mind

Jaegwon Kim, "philosophy of mind" の意識と心身問題について書かれた章(チャプター10)の読書ノート、その4です。


同一性による還元は、還元的説明にはならないが、説明ギャップに対する回答になっていることを確認した。もう一つの方針は、機能的分析(functional analysis)である。機能的分析は、還元的説明をもたらすことができる。

機能的分析においては、例えば、痛みに次のような定義を与える。 「痛みとは、体組織の損傷によって引き起こされて、忌避行動を引き起こすような状態のことである。」 これは痛みという概念の定義として提示されている。機能的分析では、このように、定義の中に"引き起こす"という物理法則(因果法則)への言及がなされている。同一説ではこのような法則への言及はない。もしC-fiberの励起が、体組織の損傷によって引き起こされ、忌避行動に引き起こすことが神経科学・物理学的に明らかになるならば、上記の痛みの機能的定義から、C-fiberの励起が痛みであると説明することができる。

だが、同一説において同一性の妥当性を論証する必要があるのと同様、このように与えられる機能的定義が妥当かどうかが別途論証されなければならない。クオリアには機能的定義を与えられるのだろうか? もしできないのなら、クオリアに還元的説明を与えることにも失敗することになる。

説明ギャップの解消: 還元と還元的説明 – Jaegwon Kim, philosophy of mind

Jaegwon Kim, "philosophy of mind" の意識と心身問題について書かれた章(チャプター10)の読書ノート、その3です。


心を物理主義的枠組みに取り込むためには、還元(reduction)か還元的説明(reductive explanation)のどちらかができれば良いと考えられている。還元と還元的説明は区別されるべきだと一部の哲学者は主張している。還元するとは同一視(identification)することである。詳しくいうと、個別科学X(化学や心理学)における概念xが、基礎科学Y(物理学)における概念yと同一であるとするのが、xをyに還元するということである。しかし、しばしば個別科学の概念は、基礎科学において多重実現可能である。例えば、学習や記憶といった心理的概念を実行することのできる物理システムには、多様な実装方法があるであろう。人間はそれができるが、他の多くの高等生物も可能だし、人工知能でも可能である。学習や記憶ができる物理システムは多様であるが、それらに共通の物理学的性質があることを想定すべきだろうか? ひょっとしたらそうかもしれないが、そうでなければならない必然性はない。物理システムとして見たときに共通点を持たないものが、心理学的に見たときに学習や記憶といった共通の能力を持っているということはあり得る。この考察は、心理学的概念を、物理学に還元することは、同一性という意味ではできないかも知れないということを示唆している。

心理学的概念を物理学的概念に同一視することはできないとしたら、物理主義の敗北となるであろうか? そうではない。心理的概念に対して物理学の還元的説明を与えることができさえすれば良いからである。還元的説明とは、個別科学Xにおける概念xを実現しているある具体例を、基礎科学Yの具体例で説明することである。学習や記憶の例に戻れば、学習や記憶ができるある存在(ある人物や生物やAIなど)に対して、その個別の学習プロセスや記憶プロセスを物理学的に説明することが、還元的説明を与えることである。

ここで提案されている還元と還元的説明という二種類があるという説の妥当性について論点はいくつかあるが、確実に言えることは、心理・物理相関法則や、架橋法則や、心身付随関係が、還元的説明をするわけではないということである。これらの法則は確かにある種の説明を与えるが、なぜ心理と物理に相関や対応が存在しているのかという説明ギャップの問題に対して理解を与えることはできない。この相関法則こそ、説明されなければいけないものである。

では、心理・物理相関法則が、心理・物理同一性へと格上げされたとしたらどうだろうか? その場合、なぜ心理と物理が相関しているのか、という説明ギャップの問いに対する回答は、「両者は同一なのであるから、相関しているという前提が間違っている」というものになる。(あるものが自分自身と相関することはできないからである。) つまり、同一説は、還元を行うが、還元的説明にはならない。だがいずれにせよこれは説明ギャップに対する妥当な回答方法の一つである。

しかし、その同一性はどこから来たのか、という問いには別途回答されなければならない。同一説に問題があることはChapter 4で見た。あくまで言えるのは、もし同一説が正しければ、説明ギャップの問題は解消できるということである。