科学と哲学のブログ

哲学、科学について書いていきます

意識は物理的性質に付随するか? – Jaegwon Kim, philosophy of mind

Jaegwon Kim, "philosophy of mind" の意識と心身問題について書かれた章(チャプター10)の読書ノート、その2です。


前回心の謎とは意識の謎であると書いたが、意識にも様々な側面がある。意識の側面のうちの大部分はおそらく、物理主義的な説明が可能であると考えられる。

自分自身の心理的状態を認識するという意味での自己意識(self-awareness)は、物理システム内部の状態を監視するメカニズムや、高次知覚・思考説によって、物理主義的な説明が可能であろう。自己意識には、直接性(directness, immediacy)という性質があるが、これは内部の監視システムと他の認知モジュールや言語中枢が物理的に接続されているということによって説明されるだろう。一人称と三人称の非対称性は、私の内部監視システムは、あなたのではなく、私の認知モジュールや言語中枢と接続されているという単純な事実によって説明されるだろう。(しかし、私の内部監視システムが、あなたの認知モジュールと接続するという思考実験を考えていくと、話は単純ではなくなっていくかもしれないが。) このようにして自己意識や、意識の主観性や一人称特権は、物理的な神経状態に付随しているものと考えることができるだろう。

では、意識の現象的、質的な側面(クオリア)は、物理主義的な説明が可能だろうか? そして神経状態に付随しているのだろうか? 一部の哲学者はNoであると考えている。例えば、Saul Kripkeは、C-fiberの励起と痛みは同一ではなく、C-fiberの励起が存在しても、痛みが存在しないという世界が想定可能(conceivable)であると主張した。Kripkeはこれと対比的に、分子運動と熱は同一なので、分子運動が存在しているが熱がない世界は想定可能でないと論じている。

もしKripkeが正しければ、可能世界には、物理的には同一であるが、意識の現象的性質を欠いたゾンビ世界があることになる。

クオリアが物理・神経状態に付随しないとする論拠は、ゾンビや逆転スペクトルが想定可能であることに基づいている。しかし、想定可能であることと、本当に可能であることには隔たりがある。想定可能性と現実の可能性の差異については、哲学上の論争がある。

さらに、ある人にとって何かが想定可能であるということは、その人が持っている前提知識に依存すると考えられる。例えば、KripkeはH2Oが水でないことや、分子運動が熱でないことは想定可能ではないと主張したが、それは現代の科学的知識を持った我々の想定可能性であり、数世紀前の人々にとっては想定可能なのかも知れない。

では科学が、水がH2Oであることや熱が分子運動であることを明らかにしたように、将来、科学がクオリアを脳神経状態によって説明することはあり得るのだろうか。そうはならないように思われる。確かに脳科学においてクオリアと神経状態の相関が研究され主張されたりするが、そこではクオリアを直接扱っているのではない。被験者からのクオリアについての言語的報告に基づいているし、そうせざるを得ない。つまり、科学的に研究することができるのは、自身の知覚や心理状態を認識・識別する能力と、神経状態の相関であって、クオリアと神経状態の相関ではないのである。そしてそのような能力が物理主義的に説明可能であるということは、冒頭で見た通りである。

クオリアの付随性に反対する論は決定的ではないが、実質がないわけではない。では逆に、クオリアの付随性を支持する論拠はあるだろうか? あるのは、論点先取の物理主義という形而上学的思想である。物理主義には二つの選択肢がある。

  1. クオリアは存在しないとする。消去主義。(ダニエル・デネットの消去主義について)
  2. クオリアを物理主義的枠組みに取り込む。

1の消去主義は物理主義を反常識的にしてしまうという問題があるため、ここでは2のクオリアの付随性を主張する路線を検討する。クオリアが物理状態に付随することは、クオリアが完全な物理的な存在であることを必ずしも意味するわけではないが、多くの物理主義者にとってそれを示すことができれば満足であろう。

また、クオリアの付随性は、クオリアが因果と関連する存在であることを意味する。付随性は、因果的な有効性(causal efficacy)を保証しないが、広義の意味で因果に関連(causal relevancy)を持つことを担保する。これは物理主義者がクオリアの付随性を示したいと考える動機になるが、付随性を支持する根拠にはならない。また、付随性を保持しつつ、因果的有効性を否定する立場が、随伴現象説(epiphenomenalism)である。随伴現象説はクオリアが我々の行為の原因になっているという日常的直観に反するが、アプリオリに否定されるものではない。(例えば、私が痛みを感じ、呻き声を上げたということを想定しよう。常識的には痛みの感覚(クオリア)が原因となって私は呻き声を上げたと説明するが、随伴現象説はこれを否定し、痛みの感覚が付随しているところの脳神経状態こそが私が呻き声を上げたことの原因である。)

まとめよう。もしクオリアの付随性があるなら、なぜ付随性があるのかを科学的に解明することができない謎として残ってしまう。もしクオリアの付随性がないなら、クオリアは物理的世界の外にあることになってしまう。この議論は、非物理主義的な対案を示唆するだろうか? しかしデカルト的実体二元論には妥当性な選択肢では無い。自然主義を採る限り、クオリアの付随性は必要になる。

説明ギャップとハード・プロブレム – Jaegwon Kim, philosophy of mind

Jaegwon Kim, "philosophy of mind" の意識と心身問題について書かれた章(チャプター10)の読書ノートです。


多くの哲学者は、次の形式の心身付随性(mind-body supervenience)を受け入れている。

もしある生物が、時刻tにおいて精神状態Mにあるならば、神経・物理状態Pが存在し、その生物は時刻tにおいて状態Pにある。そしてすべての(同種)の生物は、状態Pにあるならばいつでも、その時刻において必然的に精神状態Mにある。

言い換えると、それぞれの精神状態に、神経基礎が存在するという主張である。では、なぜこの心身付随性が成り立つのか? この問いは、説明ギャップの問題と呼ばれている。

上記の心身付随性の主張を支持しないとしても、もっと弱い主張として、何らかの心身相関があるという主張はより多くの人々が受け入れている。この場合にも、なぜその相関が成り立つのか、という形で、説明ギャップの問題は残る。

科学は心身付随性ないし心身相関を、説明しうるのだろうか?

説明ギャップの問題は、ハード・プロブレムとも呼ばれている。なぜハードと呼ばれるのかを説明するために、まずイージー・プロブレムから説明する。「どのようにして物理システムが、学習したり、記憶したりできるのか?」という問いは、イージー・プロブレムであるとされる。なぜなら、学習や記憶は、機能的概念であると考えられるからだ。つまり、学習や記憶という機能的概念には、職務内容(Job Description)を提示することができて、ある物理システムがそこで定められてたタスクをこなすことができることが、学習や記憶ができることの定義なのである。イージー・プロブレムを解決することは、機能的概念を定めるタスクを明確に定義すること、そして、その物理システムがそのタスクをこなすことができるかを判定することである。これは決して簡単ではないものの、どのようにしたら解決できるかの道筋は理解できるという意味で、イージーと呼ばれるのである。

一方で、どのようにして物理システムが意識の質的な状態を持つことができるのか(例えば、痛みを経験するなど)、という問いがハード・プロブレムと呼ばれる。なぜなら、痛みという概念は機能的な特徴付けができないので、痛みという概念そのものが、神経科学や物理・行動科学の中に現れないからである。確かに痛みにも、体の損傷を認識してその原因から逃れるようにするといった機能的な役割もある。しかし痛みの本質は、現象的な意識状態、つまり、痛みを経験するとはどのようなことか(what it is like to be in pain)である。これに科学的アプローチをすることができない。

創発主義(emergentism)は、ハード・プロブレムの問題意識を受けて、心理・神経相関は端的な事実(brute fact)として成り立っていて、ただ受け入れる他はないとする立場である。

しかし本当に、物理主義の立場から意識の現象的な性質を理解することはできないのだろうか? しばしば検討されるアイデアは、還元、あるいは、還元的説明を行うことである。これを次の節で検討する。

心の謎とは、実際のところ、意識の謎である。意識以外の心的概念、例えば、信念、感情、行為などは、機能的な説明が可能であり、それゆえ、物理主義の範囲に取り込むことができる。意識のうちの現象的性質(クオリア)だけが、同様の方法では解決することができるない。

Antonio Damasio "Descartes' Error: Emotion, Reason and the Human Brain"

日本語訳も出ている。元は『生存する脳―心と脳と身体の神秘』というタイトルで出版されていたようだが、原題通りの『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』というタイトルで復刊されたようだ。アメリカの友人が送ってくれたので、自分が読んだのは原著の方である。著者はニューロン科学や心理学の教授である。脳を損傷した患者の臨床研究に基づいて認知機能に関する仮説が展開される。自分の興味は哲学の文脈での心身問題、心脳問題にあるので、著者がデカルト批判に踏み込む最後の章についてまとめたいと思う。

心と身体の関係はどのようなものかという問いは、哲学で心身問題と呼ばれる歴史のある問題である。最近でも脳科学認知科学人工知能に絡んで議論されている。この心身問題に対して、デカルトが源流となっている二元論(dualism)という考え方がある。これに対して著者が物理主義的な立場から批判するという内容である。

著者が批判するのは、デカルトが主張した心と身体を完全に独立した存在とみなす純粋な二元論だけでなく、二元論の亜種、すなわち、心と脳がソフトウェアとハードウェアのような形でのみ関係しているとしたり、脳が生きていない限り心は存続できないという関係はあるとしたりといった程度の、心と脳に弱い関係のみがあるとみなす考え方も含まれる。

ここは余談になるが補足しておく。著者のラベル付けは、哲学での標準的なラベル付けとは少し違うように見える。著者の言う心と脳がソフトウェアとハードウェアのような形でのみ関係しているとする考えは機能主義と呼ばれるもので、二元論ではなく物理主義の一種である。ただし機能主義が二元論の影響下にあるという著者の主張は十分に理解できるように思う。自分独自の見方なので的外れかも知れないが、機能主義の背景には二つの思想があるように思う。この機能主義の立場からは、仮に心の機能を持つコンピュータを構成できたとしたら、そのコンピュータに心があると言えることになるのであるが、機能主義者はなぜそう考えるのか? 一つの思想では、心に関する言葉の論理がそれを保証していると思うからだ。もう一つの思想では、何らかの自然法則(既存の科学的アプローチでは解明不可能であっても良い)がそれを保証すると思うからだ。前者はライル的な論理的行動主義の亜種であるが、後者は二元論の亜種である。哲学者ではない科学者が機能主義者であるときには、後者の思想に基づいている、ように自分には思われる。

著者の議論に戻る。デカルトは「我思うゆえに我あり」と書いていて、考えるという活動を身体の活動とは別次元のものとして描いている。これが二元論の本質的な特徴である。しかし著者によれば、生命の進化の歴史を辿れば物質からできた原始的な生命から進化を始めて人類が誕生したのであるから、考えることよりもまず物理的なもの、すなわち身体が先にあったはずである。従って、考えるという活動は物質の構造や作用から作られているはずである。

デカルトが間違っているという著者の論拠はこれだけで、この議論は心の哲学としては拍子抜けではある。結局著者は、物質には還元されない心の出来事やら状態やらがあるような気がするというデカルト的直観と、経験科学とが矛盾するということを指摘し、それゆえ、前者の直観は放棄しなければならない、ということを主張している。心の哲学においては、このような矛盾の存在は当然明らかであって、どのようにこの直観と矛盾を解消する説明をつけるか、というのが心身問題である。著者の議論が哲学上の心身問題に回答を与えているとは到底思えない。

しかし著者の目的は哲学的議論に決着を付けることではなく、二元論が科学者や医者などの哲学者以外の人々にも浸透してしまった結果生じた悪影響を解消することである。この点で著者の議論は極めて妥当であると自分には思われた。

悪影響の一つ目は、認知科学の発展を妨げていることである。20世期中期頃まで流行った、コンピュータ認知科学(コンピュータで脳のモデルを行えば、心を構成することができるとする考え方)は、脳内ニューロンの構造、物理、化学を無視して良いと考えた。著者はこの発想は科学的に誤りであったとみなしている。上記の余談で述べたように、一般的にはこの思想は物理主義の一種とみなされるが、著者に言わせれば二元論である。またニューロン科学者が、脳内の出来事のみから心を説明できると考えてしまうのも、二元論の影響下にあるからである。心を研究する際、脳だけでなく身体全体や外界や社会との相互作用と言った系全体を考慮に入れるべきなのであり、初めから脳内の出来事に制限する必要はないし、それは不十分である。この全体論的な視点は哲学者Davidson流の物理主義と親和的で、自分としても同意できる。(ただし著者は心が脳から来ていることは疑っておらず、むしろ、なぜ系全体の中で脳が心に関係しているのかということを明らかにしたいと考えている。)悪影響の二つ目は医療である。身体の問題が精神に与える影響や、その逆に精神が身体に与える問題が軽視されるようになってしまった。古代ギリシャからルネサンス期までは主流だった精神と身体を同時にケアするような医療の伝統が失われてしまったのである。二元論は、肉体が滅んでも精神が不滅であるという考えによって生命の価値を過小評価することに繋がってしまった。

最後に、二元論批判は、人間の尊厳を軽視することにはならない、という点を著者は強調する。むしろ逆に、精神が、有形かつ有限で壊れやすい物質から成り立っているということを理解することは、人間の精神の価値を大切にすることに繋がるからである。

まとめると、心身問題に対する哲学的議論としては不満足なものであるものの、二元論は科学や医療への悪影響を与えていて克服すべきという著者の議論には大いに賛同できるし、著者の全体論的な物理主義にも十分妥当性があり、総じて自分は好意的な感想を持った。